庵谷磐さんが永眠されました

当会の前副理事長であり、「中国残留邦人問題」の第一人者であった庵谷磐さんが1月5日にお亡くなりになりました。天寿を全うされたとはいえ、残念でたまりません。
庵谷さんは1917年に旧「満洲」「奉天」で生まれました。留学先の東京帝国大学で「満洲開拓団」を学ばれ、卒業後1941年に満鉄に入社、撫順炭鉱に勤務、1946年に引揚げるまで、戦前戦後の「満洲」をつぶさに見てこられた歴史の証人ともいえる方です。引揚後も孤児全教などで「中国残留邦人」の支援活動をされました。
鈴木会長たちが原告になった裁判でも証言をされました。国の責任で解決するべき問題を「個人次元」の問題としていることの問題性がよくわかりました。また、印象に残っているのは、関東軍から満鉄の家族を避難させるよう、そして全施設を破壊するようにと命令が出ていたが、撫順炭鉱では命令に反し施設をできる限り保全し、後に避難民の収容施設として使うことができたというお話でした。しかし、だから撫順では日本人孤児を保護する施設があったからあまり「残留孤児」はいないのではと長年思っていたが、ボランティアを始めてから多数の残留孤児がいることを知ってショックだった、救出できなかった人たちがどれほどいたかという無念さと開拓団の被害が想像を絶するものであるということを改めて実感させたと、語っていらっしゃったのだと思います。
弁護団会議でお会いした庵谷さんは問題に対していつも明確なお話をされ、とても優しくて穏やかだけれど、権力に対して毅然として立ち向かう厳しさをもっていらっしゃる方だと思いました。
「血の通った行政を」と結んだ、庵谷さんが裁判所に出された意見書は帰国者の会のホームページに掲載されています。中国帰国者問題がよくわかりますし、庵谷さんの思いもよくわかる意見書です。
ご冥福をお祈りいたします。