講演会 わたしたちは歴史の中に生きている 第2弾 (三鷹市中国残留邦人等地域生活支援事業)   



歴史に学ぶ〜「中国残留邦人」問題を契機に、日中関係を考える〜



★2012年は日中国交正常化40周年でしたが、様々な問題が起こり、
日中関係に大きな変化をもたらしました。

日中関係がギクシャクしていることに、多くの人が不安を感じています。
「中国残留邦人」やその家族、中国出身者からはとくに強い不安の声が
聞こえてきます。

そして、“なんとなく疑問も感じるけれど、よく分からない”、
“不安を感じているけれど考える糸口を得られず、言葉を失っている”、
という状況が続いているように感じます。

★わたしたちが感じている“不安”の正体を知るために、
そして友好な日中関係を築いていくために、「いま何が起きているのか」
を、過去の歴史を学ぶことから照らし出していきたいと思います。

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★日時: 2013年1月20日(日) 午後1時30分〜4時30分
      (開場:午後1時15分)

★講師: ◆井出孫六さん (作家)
        著書:『終わりなき旅―「中国残留孤児」の歴史と現在』
           『中国残留邦人―置き去られた六十余年』 など。

      ◆太田昌国さん (編集者・民族問題研究者)
        著書:『「拉致」異論』 『暴力批判論』
           『チェ・ゲバラ プレイバック』 など。

★ところ: 三鷹市市民協働センター 第一会議室
       三鷹市下連雀4-17-23/TEL: 0422-46-0048
       http://www.collabo-mitaka.jp/access.html

★参加費: 無料

★事前予約: 不要

★主催: 三鷹市 ・ NPO法人中国帰国者の会
 (お問合せ先 TEL/ 03-3353-0841 石井法律事務所内)

NPO法人中国帰国者の会のHPにチラシも掲載しています。
http://www.kikokusha.com/

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★戦前・戦中の「開拓団」や「大陸の花嫁」という国策によって「満洲
へ送り出され、戦後、国に棄てられた「中国残留邦人」。
侵略国の日本人という立場を背負って中国人の家に入ることを余儀なく
された、そして同時に、中国で命を助けられた人たちでもあります。

日本の「無策」と、冷戦や日中関係に左右され続けた「中国残留邦人」。
訪日調査が開始されたのが1981年(「孤児」のみ)、
最初の支援法ができたのは1994年、新支援法の施行は2008年でした。

新支援法でも配偶者、子どもや孫に対しては何の保障もなく、様々な
かたちで問題が引き継がれています。
このような状況は、現在の日本の様々な問題を映し出していると言える
のではないでしょうか。

★「中国帰国者の会」は、1982年に「中国残留婦人」の鈴木則子らが
立ち上げ、帰国後の日本語支援や生活支援、法施行等への取り組み、
帰国者の体験の「聞き取り」等の活動をおこなってきました。

聞き取り集『わたしたちは歴史の中に生きている』発行企画の第二弾
として、この度、講演会を開催いたします。

皆さまお誘いあわせのうえ、奮ってご参加ください。

インタビュー記事

 最高裁の裁判長を務められた宮川光治さんが2月に退官され、東京弁護士会の月刊誌『LIBLA』(2012年6月号)に、インタビュー記事が掲載された。
 最高裁判事の任期中、一番記憶に残った事件として、故鈴木会長ら3人が起こした「中国残留婦人国家賠償請求事件」を挙げられている。
 最高裁決定で反対意見を出された宮川裁判長は私たちの記憶にしっかり残っている。鈴木さんも当時、最高裁で受理されなかった悔しさはありつつも、裁判長が反対意見を書かれたことにとても感銘を受けていた。
 「宮川裁判長の反対意見には心を打たれました。これは私たちの今の運動に対して大きな力になるでしょう。そして何よりも私の支えになります。」と言っていた。私たちも、すごく誇り高い気持だったことを覚えている。
 鈴木さんは亡くなる直前まで帰国者の心配をしていた。そして侵略者の一員として送られたこと、大きな力に流されてはいけない、騙されてはいけないと、私達にいつも話していた。
 大きな力が猛威を振るっている現在こそ、私たちは筋を通して自分たちで考え、自分たちで選ぶということをしていきたいと、いま改めて思う。 

庵谷磐さんが永眠されました

当会の前副理事長であり、「中国残留邦人問題」の第一人者であった庵谷磐さんが1月5日にお亡くなりになりました。天寿を全うされたとはいえ、残念でたまりません。
庵谷さんは1917年に旧「満洲」「奉天」で生まれました。留学先の東京帝国大学で「満洲開拓団」を学ばれ、卒業後1941年に満鉄に入社、撫順炭鉱に勤務、1946年に引揚げるまで、戦前戦後の「満洲」をつぶさに見てこられた歴史の証人ともいえる方です。引揚後も孤児全教などで「中国残留邦人」の支援活動をされました。
鈴木会長たちが原告になった裁判でも証言をされました。国の責任で解決するべき問題を「個人次元」の問題としていることの問題性がよくわかりました。また、印象に残っているのは、関東軍から満鉄の家族を避難させるよう、そして全施設を破壊するようにと命令が出ていたが、撫順炭鉱では命令に反し施設をできる限り保全し、後に避難民の収容施設として使うことができたというお話でした。しかし、だから撫順では日本人孤児を保護する施設があったからあまり「残留孤児」はいないのではと長年思っていたが、ボランティアを始めてから多数の残留孤児がいることを知ってショックだった、救出できなかった人たちがどれほどいたかという無念さと開拓団の被害が想像を絶するものであるということを改めて実感させたと、語っていらっしゃったのだと思います。
弁護団会議でお会いした庵谷さんは問題に対していつも明確なお話をされ、とても優しくて穏やかだけれど、権力に対して毅然として立ち向かう厳しさをもっていらっしゃる方だと思いました。
「血の通った行政を」と結んだ、庵谷さんが裁判所に出された意見書は帰国者の会のホームページに掲載されています。中国帰国者問題がよくわかりますし、庵谷さんの思いもよくわかる意見書です。
ご冥福をお祈りいたします。

後楽園憩いの家

三鷹市で憩いの家を実施していますが、毎月第1、3日曜日には後楽園憩いの家を始めました。
一世、二世を中心におしゃべりを楽しみながら、過ごしています。
これまで、お花見に行ったり、温泉旅行に行ったりもしました。
第1日曜日には日本語の学習も始めます。
先日は、支援相談員を経験した二世が、一世の相談をうけ、自治体につないだり解決に向けて動き出したりもしています。これから、どんな活動ができるか、模索していきたいと思います。

鈴木則子会長のお別れの会へのご参列ありがとうございました

4月10日、日中友好会館大ホールで鈴木会長のお別れ会をいたしました。会場には200人を超える方々がご参列くださいました。会場に行く途中、神田川の川沿いに咲く桜が満開でした。
井出孫六さまを始め、ご参列いただいた帰国者の方々からお別れの言葉をいただき、献花とともに会長にお別れをいたしました。
東北地方大震災後の原発事故が起こしている深刻な事態に対する国への対応は、鈴木会長が訴えたことと根は同じ問題であるということや、鈴木会長らが最高裁まで裁判を闘い抜き、宮川裁判長の上告を受理すべきとの異例の少数意見を引き出したこと、そして帰国者のために捧げた人生であったなどのお別れの言葉をいただきました。
私たちは会長の遺志を引き継ぎ、安易に大きな力に流されないで一人ひとりが自分で考え、判断していくことなど、会長が残してくれたものを私たちのなかで大切にしてていきたいと思います。


鈴木会長のお別れの会

鈴木会長が1月26日、永眠しました。
転業開拓団として「満洲」にわたり、敗戦後、国に見捨てられて逃避行中に足に怪我を負い、そのままの足でずっと歩き続けました。
杖を突きながらどこへでも出かけていきました。
たくさんの方から、惜しむ声をいただいています。
「未判明孤児」にとっては実のお母さんのような存在でした。「残留婦人」にとっては、自分の気持ちを国に対してしっかり訴えてくれる存在でした。わたしたちにとっても、不当なことに決して黙っていない、権力に対して毅然として立ち向かう、かっこいい女性でした。
4月10日(日)日中友好会館地下ホールで、鈴木会長のお別れ会を行います。1998年に、「長期に渡り中国からの帰国への日本語教育及びその施設の運営に努力した」功績で、日中学院の倉石賞をいただいています。
お別れの会は午後2時から、開場は1時半からです。どうぞご参加ください。

忘年会

中国帰国者の会の忘年会が開かれました。中国帰国者の方達が中心になって企画、運営し、140名もの方々が参加しました。
今年も毎年参加してくださっている菅伸子さんがお忙しい中、参加してくださいました。
帰国者の方達が中国の歌や踊りを披露されました。
元「残留婦人」の皆さんは「故郷(ふるさと)」を合唱しました。長年帰国できなかった方々が中国でも歌っていたのだと思います。日本語を忘れないためにも・・・。ご本人たちもですが、 聴いている私たちもおもわず涙がでてしまいました。戦争はむごいです。