憩いの家

2006年9月からスタートした三鷹「憩いの家」は、開設から4年が過ぎました。2007年4月からは、地域生活支援事業として三鷹市の委託事業になっています。開設当初からたくさんの元「中国残留婦人」や元「中国残留孤児」とその配偶者の方たちが参加されています。
11月の「憩いの家」では、医療機関による差別の問題が話題になっていました。
「中国人」「中国帰国者」と聞いた途端に態度が変わったり,診療拒否をされり・・・。帰国者の人たちはその現状を嘆いていました。「医療の仕事に関わる人でしょう? 病気を治す人、命を守る職業の人でしょう。」
尖閣諸島の問題などで、中国と日本の国家間の関係がギクシャクしているけれど、そのことから単純に中国人、中国帰国者を差別しているのではないですか、マスコミがそれをあおっているのではないですか、そういうことがとても危険なことなのではないでしょうか」
そんな話し合いのあと、私たちも教えられていない歴史の事実をきちんと知るために、元「中国残留婦人」のかたたちに、お話をしていただきたいと、お願いしました。
どの方も、「やりましょう!」「私たちにできることがあれば、やりましょう。」
いま、「残留婦人」の方にしかできないことが、伺えないことががあるんです。
この企画は、中国帰国者の会の出前授業として、実施していく予定です。乞うご期待!

中国語学習会

中国帰国者に教わる中国語学習会は二年目を迎えている。私たちが帰国者の方かたちから中国語を教わり、帰国者三世は母国語を学ぶ。今の私たちの先生は二世の配偶者Yさんとその息子で三世のJ(小学校5年生)。Jは、学齢期前に来日しているため、中国語の読み書きはできない。でも家では中国語を話しているので発音はバッチリ。
テキストをYさんが読み、発音チェックはJがしてくれた。今日は特に有気音「t」と無気音「d」の違いを薄紙を口の前に持ってきて練習した。発音した時に紙が動いたら有気音、動かなかったら無気音。
Jは、中国語をノートに写し、この教室で中国語の読み書きを練習している。学校で日本の漢字を学んでいる彼にとっては、中国語が外国語になるのかもしれない。
今日勉強したのは、你们学校有多少台电脑?(あなた方の学校にはコンピューターが何台ありますか?)
Jは家ではできるだけ日本語で話すようにしているそうだ。「だって日本語で話さないと、お母さんの日本語が上手にならないでしょ。」と、羨ましくなるくらい優しい。
今日もたくさん勉強したね、と、みんな満足して帰って行った。

新学期

4月。新しい学校へ、新しい学年へと、気持も新しくなるような希望に燃える季節。この春、帰国者の子どもたちの進学、進級にもさまざまなドラマがあった。
帰国して6年目のFさんは、この4月から都立高校の1年生になる。
2月、家庭の経済的事情で公立一本を受験した。一校しか受験しないというプレッシャーがあるだろうと、志望校を何ランクも落としての受験だった。しかし結果は不合格。担任から連絡をいただいた。「日本語の問題だと思います。」学校生活の中で何ら問題なく日本語を話しているように見えたが、確かに、作文の中での「てにをは」にも問題はあった。問題文そのものが理解できなかったのではないかというのが先生のお話だった。日常会話と学習の言葉の習得とは別のものだ。
Fさんの父母は中国残留孤児家族。母親は中国で学校に行くことができなかったため、中国語の文字さえ学ぶ機会がなかった。そのため来日後、日本語学習も思うように進まない。Fさんは両親の病院での通訳、役所での通訳などを一人背負ってがんばってきた。
都道府県立高校の中国帰国生徒及び外国籍生徒への高校入試特別措置」が全国で実施されており、特別入学枠などが設けられている。東京都では一律に小学校4年生以上で編入した子に特別入学枠での受験が適用される。家庭でのバックアップがある場合には、4年生以上で可能かもしれない。しかし、帰国者家族の中で、家庭ではほとんど中国語ですごし、学校では何とか遅れをとらないように、周りからその遅れが見えないようにがんばってきている子どもにはとても厳しいものだと思う。大阪では小学校1年生から適用されている。
Fさんは2次試験を受け、見事合格した。
長年、国に翻弄され続ける帰国者とその家族。問題はまだまだ存在してる。問題を少しでも良い方向に向けて解決していき、帰国者の人たちが安心して暮らせるようなやさしい施策が作られていくことは、私たちの暮らしが本当の意味で豊かになることにつながっていくと思う。

生活相談

毎週一度開いている生活相談室。今週、聴覚障がい者の帰国者家族の方が来られた。聴覚に障がいのある高校生のEさんとその母親。母はほとんど日本語が話せず、人とのかかわることがなく家にいることが多い。
Eさんは日本の手話で話し、母親は中国語。互いのコミュニケーションがとれないし、母親は学校のこともよく分からない。聾学校の先生がHPで私たちの会を見つけ、連絡をくださった。
みなが自己紹介したあと、久しぶりにお母さんが中国語で話し始めた。Eさんは、「お母さんがこんなに楽しそうに大きな声で話すのをはじめて見ました・・・。」
本当に幸運なことに、2年前にスタッフになってくださった方が、手話を話される。中国語と、手話とが飛び交い、いつもと違う雰囲気だが、みな充実している。学習支援を受け、高校に合格したばかりの中学3年生は、「これから手話を教えてもらいます。もう友達になりました。」
いつも支援を受ける側になりがちな帰国者だが、どの人も大切な存在だから、困ったことがあったら、その状況を変えていくために一緒に考えていく一人ひとりになっていきたい。
お母さんも高校生のEさんも、来週も来ます!と嬉しそうに帰っていかれた。私たちにとってもとても嬉しい出会いです。

学習会と聴き取り実行委員会

帰国者と市民が一緒に帰国者問題についての学習会を開いています。
昨日は第2回目の学習会で、帰国者問題がなぜ起こったのか、その歴史を学びました。
なぜ「満洲」に送り出すことを誰も止められなかったのか・・・。なぜソ連侵攻が分かっていて、開拓民をそこにとどめたのか・・・。それぞれの立場から疑問が出されました。
これから、どうすることが同じようなことを繰り返さないことになるか、みんなで考えていく学習会にしていきたいと思います。
その後引き続き、聴き取り実行委員会を行いました。

写真展

地域生活支援事業として三鷹市で開催していた鶴崎燃さんの写真展「海を渡って」が昨日で終了しました。たくさんの方々がご来場くださいました。ありがとうございました。8日に開催した鶴崎さんと鈴木会長との対談に参加された方が寄せてくださった感想を掲載します。




「もし、あの時期に残留邦人の方と同じ立場に置かれたら、自分も何も考えずに満州へ渡っていたと思う。…現在、かつての満州の地で夢を求めて働いている日本の若者たち。とりあえず将来役に立つだろうと語学を学びながら、派遣社員としてわずかな賃金で働いている彼らを見ていると(昔と今と)何も変わらないのではないかと感じた。…」対談での鶴崎さんの言葉です。

私は、鶴崎さんの写真展を三木淳賞奨励賞受賞前後で2回見せて頂きました。写真の中に知り合いの姿を見つけ、自然と顔がほころんだり、なんともいえぬ空の色や、今も中国に残る朽ちかけた日本式の家屋に残留邦人の方々のご苦労を重ね合わせて思いをはせたり・・・しかし、屈託なくカメラに向かって微笑んでいる日本の若者たちの姿には、何ともいえぬ思い、説明できない何かを感じたままでした。

対談で鶴崎さんの言葉を聞いた時、あの若者達の微笑を見て感じた何ともいえぬ思いは、彼らの笑顔の裏に65年以上前の残留邦人の方々の笑顔を重ねてみていたからかも知れないことに気づかされました。当時、満州を目指して海を渡った時、人々はみんなこんな風に希望に満ちた笑顔をしていたのかも知れないと。過去と現在、私達は多くの犠牲を払ってたくさんのことを学んできたはずなのに、鶴崎さんの言うように、何も変わっていないのかもしれない。しっかり、ゆっくり写真を鑑賞していたつもりでしたが、私は鶴崎さんのメッセージを受け取る事ができていませんでした。

鈴木さんが、国は未だその責任を認めていないことについて語られた時、鶴崎さんは「そういった問題を解決した日本に生きていきたい。その為に、写真を通してできる事をしたい。」とおっしゃいました。私は、どんな日本に生きていきたいのか?その為に、私には何ができるのか?彼の言葉は、最後まで強烈に私の心に残りました。

写真展と対談

当会主催、三鷹市地域生活支援事業の写真展が昨日から始まっている。
三鷹市役所2階の市民サロンは、写真展「海を渡って」の会場となり、多くの方が観に来てくださっている。
初日である昨日、鶴崎さんと鈴木則子さんの対談を行った。
鈴木さんは「満洲」へ渡った経緯や中国に取り残された後のこと、帰国してからなぜ会を立ち上げたかなど、鶴崎さんからの質問に答え、この問題は過去の問題ではないのだと話された。
また、鶴崎さんからは、作品を通して、この問題は現在の問題でもあるのだということを映し出したかった。もし当時の状況の中にいたら、自分も周りからの無言の力に押されて「満洲」に渡ってしまったかもしれない。今、何をしたらいいか、考えていきたい・・・。
写真展は12日(金)午後5時まで開催されている。ぜひご覧ください。
http://www.kikokusha.com/images/20100308photo/20100308photo.pdf